2015-08-22

「放浪息子の帰還」

ただいま。

今朝方、日本時間の7:40に成田着。
そのまま宇都宮行きのバスに乗り込んで、東京を経由せずに常磐道経由で帰宅。
3ヶ月ぶりに帰ってきたというよりは、26年ぶりに振り出しに戻る旅ももうお仕舞い。
まだ何も決まっていない故郷へ向けてバスが走り出したら、頭の中で「ルージュの伝言」が鳴り響く。
ただ、「今」の自分がやるべきことを決め続けてきた、この3ヶ月の続きが明日から故郷で始まるだけのこと。
おかえり、飼い主くん
さて、この不安定なブログも、これでお仕舞いです。
旅行ブログは日常に持ち込むもんじゃない。
最後の数日間はBloggerの不調か、宿の環境の不具合か画像が投稿できなかったので、それをあとで足しとくくらいかな。
ま、奴は故里で楽しくやっていると思っていてくだされば(笑)

そんなことを言って、また「新たなる旅立ち」とか「永遠に」とか「完結編」とかって続くんじゃないか、と勘繰っているそこの貴方!!
貴方です!!
んなこた、ないかんね(笑)
(「20xx」とタイトル末尾に年号をつける手があるな・・・)

では皆様、またご縁を創ってお逢いしましょう。
バイ!!

ログアウト

いま、ログアウトへの扉が開く。
もうすぐさようなら、東南アジア。
またいつの日か。


2015-08-21

歩いた

歩いたなぁ。

お仕事(便利屋)

最近までやっていた仕事。
便利屋もけっこう面白いお仕事でした。
たまたま隣の家が便利屋兼古道具屋で、挨拶に行ったら仕事手伝ってみるかい、ということになったのが発端。
普段は大将のOさんが一人でやっていて、大きな仕事が入ると手伝いに行きました。
だいたいは亡くなった家族の遺品整理や、ゴミ屋敷の撤去、建物取り壊し前の家財処分なんかです。
中身をきれいに出さないと、解体屋は家を壊してくれませんから。
いろんな家のいろんな秘密にも触れてしまう、亡くなった人の秘密にも意図せずして触れちゃう仕事なんで、あまり書くことはありません。
ただ、ものすごい物量のモノの集積から浮かび上がってくる、そこに暮らした人たちの人格や趣味といった、いわば人となりに浸るような仕事には興味深いものがありました。
先週まで孤独死の腐乱死体があった真夏のアパートで、Oさんと二人で一切合切を整理したこともあります。
死体の整理はアレですけど、私は死体がなければ問題ありません。
人格を疑われるかもしれないけれど、そういう仕事もけっこう好きなんです。
やろうと思っても、そのへんで募集なんかしてない仕事ですからね。
Oさんは私よりも6歳年上の厳つい男で、かなり荒い土地柄の育ちですが、とてもよく気の回る、しかも頭の回転の速い人でした。
ひとりで仕事をしているので、いつも効率よく動くことを考えています。
仕事中にトイレへ行くのでさえ、手ぶらで歩くと叱られました。
「ゴミの一袋でも持って行け」
意図のない動きや無駄なステップも仕事中は厳禁でしたし、依頼人のみならず周辺の家への気遣いも尋常じゃありません。
この10年で、私がいちばんダメ出しを受けた人ですね。
「Kioちゃんは臨機応変な柔軟性に欠ける」「正攻法に真面目すぎる」と。
俺がそれを言われるとは・・・
それでも一人で重量物を運ぶ身体の使い方とか、トラックへの積み込みのノウハウとか、いろんなことを学んだ作業は楽しかったです。
死体の臭いがプンプンしようと、仕事が楽しければ関係ない(笑)
この年齢で勉強できるチャンスはあまり無いですから。
昨年末の忘年会では、「Kioちゃんは80点だな」と言われました。
あんだけ働いて80点かよと不平を鳴らしたら、「バッカ野郎!!俺から80点もぎ取ったんだから有り難てぇと思え!!」と逆ギレされました。
Oさん自身、自分に100点をつけられる現場はいまだ無いんだと思います。
100点まであと20点・・・それは職業としての便利屋が、仕事をとってきて、それぞれの品物やゴミをあるべき場所に捌き、生業として何年にも渡って安定して続けていく中で上がっていくポイントです。
私の80点は、いわば一種のアルバイトの便利屋卒業証書でもありました。
もうちょっと勉強したかったというのが本音ですが、まぁ面白い仕事はどこにでもあるんじゃないでしょうか。

出国5時間前

ただいま19時。
無事にハノイのノイバイ空港第二ターミナルに着きました。
ハノイの街を去るに当たっては、一抹の寂しさが。
というよりも祭りが終わるその淋しさ、というべきかな?

事前にローカルバスの発着所まで下調べに行っていたのですが、夕方のラッシュ時に満員のローカルバスにバックパックを持ち込むことは遠慮して、素直にベトナム航空のミニバスを使いました。
17番のローカルバスだと7千ドン、ミニバスは市中のベトナム航空オフィス前から4万ドン。
4万ドンて240円くらいですから、無理してローカルに乗ることもないかなと。
夕方の帰宅ラッシュに巻き込まれながらも、50分で空港に着きました。
で、なにもすることがない。
帰国後の仕事は、いま考えてもしょうがない。
せいぜい上手く行かなくても凹まない、という覚悟を決めることぐらい。
衝撃に備えよ。
あと36時間くらいで実家に到着している筈だから。

あとは本を読むくらいですかね。
Kindleは、『砂のクロニクル』を読み終わってから、『涼宮ハルヒの溜息』『星を継ぐもの』『涼宮ハルヒの退屈』と続き、いまは上橋菜穂子の『獣の奏者』の一冊目を読んでます。
出発までに読み終わるかな?

思いでの宿・シャンカライホステル(ヤンゴン)

90日間、ドミトリーを中心にけっこうな数の宿に泊まりました
ものすごい汚い強制収容所みたいなところから、野趣溢れるというか溢れすぎの宿、宿のせいじゃないけど隣の鼾がひどかったところ、エアコンが壊れていたところ、南京虫のいたところ、英語のまったく通じなかったところ・・・
思いではそれぞれです。

その中で一番の思いではヤンゴンのシャンカライ・ホステルでしょうか。
初日だったから印象深かったということはあります。
ヤンゴン市内は家賃高騰のため、ドミトリーの中がじゃっかん窮屈だったというマイナス点もあります。
でも、この宿のオーナーの人柄が私の旅の1ページ目を楽しいものにしてくれました。
オーナーのミンさんは、2011年まで6年にわたって日本に在住していた方です。
高田馬場にミャンマー人のコミュニティがあると聞いていましたが、まさにそこに住んで、新宿で仕事をしてたそうです。
たしか食堂だったかな?
そこが一年363日勤務。
友人たちが気でもおかしくなったのかと心配し、そんなに働いて何になると非難されるほど働いたそうです。
多少の労働環境の過酷さには驚けない私ですが、たしかにちょっとそれは・・・ね?
そもそも、そんなに働かされて日本を嫌いにならなったんでしょうか?
不思議な人です。
震災の起きる2ヶ月前にミャンマーに帰国し、様々な経緯を経て2015年の2月にゲストハウスを始めたそうで、つまり私が泊まった5月末は立ち上げ間もない時期だったんですね。
設備も新しくて綺麗だったし、なによりミンさんがやる気と意欲に燃えていました。
「金稼ぐぞー」みたいなギラギラした感じじゃない、静かな意欲。
彼は日本で学んだお客へのホスピタリティを、自分の国で通用させたいんだそうです。
どこの国から来る客にも喜んでもらえる接客基準を作りたいと。
まぁ、日本人として悪い気はしない(笑)
ただ、目下の悩みは他のスタッフが、その理想をなかなか共有するに至らないことだそうです。
先覚者の孤独な悩みですね(笑)
ミンさん

2011年というと、ミャンマーでは3月に軍事政権から民政移管が行われています。
たぶんミンさんが帰国を決めただろう前年には、11月に新憲法下での総選挙が行われ、アウン・サン・スーチーの軟禁も解かれています。
ミンさんの政治的な立場がどのようなものなのかは知りませんし、尋ねもしませんでしたが、民主化とともにいち早く帰国したことを考えれば、なんとなくは判ります。
そして、その日のために遮二無二働いてきたのだと思えば、なかなか骨のある大した男だと。
ただ、本人はまったく我の強さをみせない穏やかな物腰の人です。

シャンカライ・ホステルは、べつに日本人宿というわけではありません。
ミンさんも世界中のお客に来てほしいと言っているし、実際に多くが欧米人のゲストでした。
ただ、オーナーが日本語を喋れますし、なによりお客に喜んで貰いたいと一生懸命に頑張っている。
ある意味、変わったミャンマー人ですが、一生懸命に喜んでもらおうと接せられると、不思議にこちらも一生懸命に喜んでしまいます。
今日は何番街からどこそこまで20キロ歩いてきた、どこそこの街角が興味深かったとか、そんな他愛のない話をカウンターで報告すると、いろんな解説が彼から帰ってきます。
ずいぶんと楽しませてもらいました。

最後にシャンカライ・ホステルという名前の由来。
はじめはミンさんがシャン族の血でも引いているのかと思ったんですが、それは違いました。
幼い頃にシャン族が多く住むシャン州に住んでいたんだそうです。
その後、すこし大きくなってヤンゴンに出てきた時、親や親戚からつけられた渾名が「シャンカライ」
「シャンから来たおちびさん」というようなニュアンスの言葉だそうです。

日本で得たものをミャンマーで生かそうとしてくれている人、というだけで応援したくなるのは短絡的な話ですが(そういう人は、たぶんたくさん居る)、それでもあのゲストハウスが長く続いて、数多くの旅人たちを受け入れ、送り出し続けてくれることを祈っています。

そういえば肝心なこと。
お値段はドミトリー朝食付で8ドルでした。

ShannKalay Hostel (シャンカライホステル)
shannkalayhostel@gmail.com

No 166/168 ,3rd Floor, 49th Street Between Bogyoke Aung San & Anawratha Road , Pazundaung Township , Yangon., 


シャンシャンカライ ホステル (Shannkalaイ ホスost

シャンカライ ホステル (Shannkalay Hostel)

振り返ると

90日という日々は振り返ってみれば、あっという間でした。
たった6カ国で90日とは、かなりのんびりと歩いた旅だったと思います。
財布落としたり、ひったくりに遭ったりもしましたか。
いまはハノイ旧市街の外れにあるカフェで、時間つぶしにノンビリしながらこれを書いています。
あとは出国するだけなので、街を眺めながら一日を静かに過ごしたい。

今回で、こういった形での放浪旅行は終わりにしようと思ってます。
家族旅行でハワイに行きたいとかって子供が言い出したら・・・
そうですね、そういうときは旅行するとは思います。
で、現地についてそこはハワイじゃない(笑)
お父さん、ここどこ?
ハノイだよ。

でも、それはふつうの旅行になると思います。
バックパック旅行だって、来てみればけっこう普通なんですけどね。
引退というほどに海外を渡り歩いたわけではありませんが、これでお終いという理由は、やはり新しい刺激を受けてそれを明日に生かすというような年齢よりも、すでに自分の中にあるものを丁寧に使って明日に生きるという歳頃だと自分で感じることでしょうかね。
もう刺激も経験も十分異常に、もとい十分以上に受けてきましたから。
いまのままじゃ人生の変態経験コレクターで終わってしまう(笑)

実際に昔ほどの刺激を旅から受けなくなったということはあります。
経験を積んだためもありましょうし、年齢的に感受性が鈍ったのかもしれません。
東南アジアの主要国は、なんだかんだ言っても観光客慣れしていて、バックパックの自由旅行という「パッケージ」が流通してますから、その気軽さも破天荒な刺激の減少理由としてあるでしょう。

それが判っていて旅行に出たのはなぜか。
ひとつは26年間の東京生活を明確に区切って過去へと押しやること。
もうひとつは、そこに住んでいる人たち、スマホも使えばバイクも車も持っていて、子供をたくさん抱えて生活してる人たちを見たかったという、素朴かつ失礼な旅人通有の興味。
そして最後が、自分の価値の確認でしょうか。


最後のひとつ、わかりにくいですね(笑)
20代の頃から、日本の法律があまり通用しない世界での「刺激も経験も十分異常に」積んできたものですから、私はあまり自分の価値とか権利とかを尊重できない傾向があります。
どんだけ人権がどう、権利がどうと叫んだところで北朝鮮に拉致されたらら、ISに捕まってオレンジ色の服で正座させられたら・・・それでお終いです。
世界共通のものは案外に少なくて、通用しないところでは通用しないものはとことん通用しない。
ただ、日本の法律が通用しない場所が外国だったら良かったんですが、私の場合は場所が日本国内の株式会社だったんで、問題はさらにややこしくなります(笑)
外国なら諦めもつきますが、法が通じるべき国内で通じないのは話が違う。
圧縮して端的に言えば、3年8ヶ月在籍した会社でお金を貰ったのは4ヶ月分くらいという話なんですが、お金を貰わずに昼間は会社で仕事して、夜はバイトで生活費を稼ぐような生活は、かなり屈折した自己存在の是認要件を生み出します。
もう、ほとんど妄想と想像の世界で、革新的ともいえる自己肯定の発明の嵐(笑)
そんなわけで、他人が自分の権利と正義を声高に主張していても、自分自身についてはどうでもいいやと思っちゃうような人間になってしまった、と。
どれだけ自分が正しいと法律を盾に叫んだところで、出す気のない奴になにかそれを認めさせることも、出させることも難しい。
むしろ自分の価値と権利は、法律が定めてくれるからそこにあるんじゃなくて、自分で常に確かめているものだからそこにある。
他人や法律が認めるか認めないかは、関係ないとまでは言わないけれど、あまり過剰に期待して受け取ってはいけないし、ましてや自分を守る唯一至高の盾にしてはならない。

30代の頃、さる人材派遣会社のシステム部で働いていた頃。
そこの部長が私を評した言葉。
「まったく社会や人生に期待をしない男」
「他人をまったくあてにしない男」
なにか仕事上でトラブルがあっても、他人の責任がどうの自分の権利がどうのという人の話を聞き流しながら、どうせ社会はこんなもんなんだから騒ぐほどのこともない、トラブルですらない、言うだけの時間があったら手を動かせば良いだけのこと。
他人の権利や正義と俺自身は、直接的には関係ない。
そんな感じだったらしいです。
「仕事を自分で作ってくるから手が掛からないけれど、仕事を与えるときは難しい」←ほーら、こんなに面白い仕事だよ、と上司自身が面白がってみせないと興味を示さない=そんなに面白いなら俺にやらせてくれ
「自分の興味と面白がりで仕事しているので、利益誘導も脅迫も効かない」
「サラリーマンとしては危険思想の持ち主」
思い返せばひどい言われようだな(笑)
ただ、部長自身は組織の中での私のイレギュラー性(異常性ではなくて、イレギュラー性です)を重く見て、私はずいぶんとお世話になりました。

ちょっと話が逸れちゃいましたね。
旅行にでるということは、私にとっては仕事しなくてもいい、なにをしてもいい、自由だという世界ではなく、常に全ての行動を自分で決めなくてはいけない日常であり、なんでも自分で確かめなければいけない世界です。
むしろ日本の日常よりも縛りが多くて大変。
で、たいていの場合、私は相手の国の人にとって、大きなお金を持ってきてくれる外国人観光客。
多くの親切をこの90日間受け続けてきたことは認めますが、最初の入り口のほとんどはお金です。
そこでしか、どれだけ払うかでしか、まず私の権利はなく、彼らにとっての私の価値はそこにある。
だからって、それだけを受け入れていくのは人情として寂しい。
やはり、そうじゃない自分の価値とか権利とかを考えてしまいます。
そういうことが、まだ若い頃みたいにできる、自分が何かをするたびに自分がそれに行うに相応しい人間かどうか、何かをして貰うたびに自分がそれを受けるに十分な人間かどうか、自分で納得することができる。
それが私の独り旅をする三つ目の、そして旅行をやめる理由です。
もう確認だけをしている歳じゃないからさ。

一時間ほど前から、カフェに8人ぐらいの日本人が入ってきました。
大学生の男女です。
サークルかなんかの先輩後輩関係ですね。
まったく・・・街歩きもしないで、こんなカフェで時間をつぶしやがって(笑)
そもそも群れすぎ・・・
などと思いつつも、彼らが微笑ましくもあり眩しくもあり。
はやく独りで歩けるようになれよ。
そうしたら、グループでならもっと楽しくなれるから。
たぶんね。

昼の12時になったので、いったん宿に帰って荷造りします。
荷物、ちょー少ないけど。
ではでは。

日本帰国まで、あと1日!!