2015-05-08

散歩の楽しさ

ご無沙汰です。
あんまマジになんなよっ、て自分に嫌気が差して日が開いてしまいました。

さて、送別会を三日連続でこなした後、連休前半は二泊三日で帰郷。
5日に仕事があって上京したものの、その後は仕事が無くてGW延長戦の様相を呈してきた今日この頃。
すでに私の勤労精神パルスはフリーターとしての存在閾値を割り込み、無職の暗黒領域へ。
ダメ! 社会に戻れなくなる!!

ところで帰省中、実家でブラブラしてるのもなんだから、毎日10キロくらい散歩してたのだけど、そのなかでの面白い発見をふたつ。

ひとつ。
実家の近所には国体をやった総合グラウンドとか、可愛らしいサイズの古墳(しかし前方後円墳!)なんかがあって、そんなところを散策するのが私の年寄りくさい日課。
で、例によって古墳近い藪の中を歩んでいくと、白い花をたわわに載せたガマズミの足許に多数の箱が人目を忍ぶように置かれている。
もしかして、と近づいていくにつれて耳に大きく響いてくる無数の羽音。
え?こんなとこで? という感じだったが、やはりミツバチの養蜂箱だった。
しかも25箱。
個人にしては数が多いので、箱に書かれた苗字と養蜂で検索してみたところ、地元の養蜂組合に同じ名があった。
案外に身近なとこで養蜂が行われているということは、小さな驚きだった。
しかし、商売にしては25箱は少ないような。
おそらくは同じような養蜂箱のコロニーが、市内のあちこちにひっそりと置かれていて、季節の花を追って転々と移動しているのではないだろうか。
そういえば昔、仕事で70年代の養蜂家のドキュメンタリーを観たことがあって、これは花を追って九州から北海道までトラックや貨車に満載した巣箱と共に移動する人たちの記録だった。
何ヶ月もの間を旅の空で暮らす生活に耐えきれず、里心のついた中卒(だったと思う)の新人が涙ながらに辞めていく姿なんかが記憶に残っている。
いまはそこまでのコストをかけられるほどに蜂蜜も高価ではないから、そうした超長距離での季節移動スタイルは無いのだろう。
とはいえ、現在のような養蜂が日本に移入されたのが明治期で、鉄道が日本中に拓かれていった時代にある程度は対応しているとすれば、日本養蜂の歴史の中で旅の養蜂はほんの一時的で特殊なスタイルだったのかもしれない。

もひとつ。
実家から市内とは逆方向、隣町との境に近いところまで歩いていくと、いまどき珍しい縫製工場がある。
なにが珍しいといって、ヨーカドーの劇安衣類がミャンマーで作られている時代に家内制手工業ではない、ある程度の規模のある工場が国内に生き残っていること、それ以上に工場の二階の窓いっぱいに干された生活観あふれる洗濯物の満艦飾(しかもすべて女物)という関東の片田舎らしからぬ景観である。
やっぱあれだよね、これって工場の二階が寮になっていて、娘さんたちがいっぱい詰まって生活してるんだよね。
きゃーっ、お近づきになりたいわぁ。
どんな娘さんたちかしら?
でも・・・いまどき日本の娘はそんなライフスタイルで働くよりは、実家でニートの道を選ぶよね。
職住近接の共同生活なんてウザイよね。
で、周囲を歩くと近傍には中国東北部の都市名を冠した中華料理屋が一軒。
いや、あの洗濯物の色彩感覚はもっと南国だろ。
その近くにはつぶれたタイ料理屋が一軒。
これか?
あとは思いつく限りの単語でネット検索をかけること暫し。
そして分かったことは、どうも彼女達が意外やベトナム人らしいこと、社長が地元のボランティア団体に関わっていて、そこからベトナムのストリートチルドレン支援組織に繋がってること、その組織のリーダーが70年安保でべ平連の出身だったこと。

地元の人もあまり見えてない、というか気づかないのかもしれないけど、ちょっと歩いていて「あれ?」という小さなサインが都会も田舎もたくさん転がっている。
そうしたものから、いろんな世界に向けて思いを馳せてみるのはとても楽しい・・・と思うんだけどね。

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